アニメタン

深夜アニメについて主観的に語ります。アニメのテーマ、演出、メタ考察。自作リミックス、二次創作なども公開していきます。

URAHARAというアニメ

 

久しぶりの投稿、アニメ自体最近全然見れてないですが、

たまたま機会があって見た2017秋アニメの

URAHARA

というアニメについて評価・考察します。

 

ネタばれ含むので、最終話まで見ていないで、今後見るかもしれない方は見ないでください。

 

このアニメはクランチロールという海外のネットアニメチャンネルが噛んでるアニメで、クールジャパン的な施策のアニメのようです。

舞台は原宿で、とあるショップでそれぞれ服飾・イラスト・スイーツその他をクリエイトする三人の少女の葛藤を描いています。

一応、人間関係的な青春も描かれますが、メインはクリエイターとしての葛藤です。

私が感じた主なテーマは以下の4つです。

 

  1. 創造とは何か(=文化とは何か)
  2. 創造の目的は何か
  3. 薬物とアート
  4. 仮想と現実

 

大体上から順に描かれていると思います。それぞれ考察していきます。

 

 

①創造とは何か(=文化とは何か)

この作品において、原宿は文化をクリエイトする人たちの町として描かれます。

その街にやってくるスクーパーズ創造が出来ない生物です。

主人公たちは人々が徐々にスクーパーズ化されていることを知ると、ある疑問を抱きます。

創造とは何かということです。

 

彼女たちは日々作品を作っていたり、知識を深めたりしてきましたが、

果たしてそこにオリジナリティはあるのか、結局は何かのマネではないのか、そう思うのです。

 

たしかにこれは難しい問題です。

完璧なオリジナリティだと思っても、必ず深層心理で何かの影響を受けています。

知識というのも、基本的に、だれか専門の人間が発見したりしたことの借りものです

私たちが「借り物なし」にクリエイトすることできません

 

しかし、「借り物からなるクリエイト」と、いわゆる「パクリ」には明確に差があるとこの作品は訴えています。それを説明するのが文化です。

文化というのは共同体における関係性です。やりとりです。

たとえ作品が何かに似ていたり流行といったものであっても、

作る人受け取る人の間に「好き」を伴うやりとりがあり、その関係性が作品・創作をより良くしていくのです。

原宿はそれがある街だと描かれいてます。

 

しかし、ここに問題点が新たに生まれます。

「やりとり」と「好き」によってクリエイトが成り立つなら、

果たして創造は孤独な人間に成り立つのでしょうか

この問題に主人公のリトはぶつかりますが、詳しくは次の項で書きます。

 

②創造の目的は何か

主人公たち3人は、創作による喜びを「誰かに見てもらえて褒められた時」に感じています。

つまり「誰かに褒められないと創作に意味はない」というテーゼです。

3人はそれぞれ、その「誰か」が違います。

 

リトは今まで誰にもほめてもらえなかったので「誰でもいい誰か」ですが、仲間を求めています。

マリ承認欲求が強く「できるだけ多くの誰か」です。

コトコはフォロワーはいるものの、過去の体験やトラウマのせいで、「自分の人間性を理解してくれる誰か」です、そして創作内容自体にはあまり興味がないです。

 

一方でクレープ屋のさゆみんは、創作とは少し違う活動かもしれませんが、「自分が好きなものを作れる」「相手が笑顔になる」ことに喜びを感じています。

ポイントなのが無料で配るという点です。

対価」を受け取らないということは、「評価」を受け取らないことを意味します。

これは「自分の好きなようにやらないと創作に意味はない」というアンチテーゼです。

 

この、創作活動の何に喜びを感じるか問題は、結構重要です。

ここで大事なのは、創作それ自体は芸術ではないということです。

なので、作品内にはいませんでしたが、お金儲けのためという人も現実にはいて、それも立派な理由です。

 

そして、三人ともPARKでの創作が自己目的化していきます。

他人に評価されたいと同時に、自分の好きを表現したい

それはつまり、自己実現です。

創作においてこの「自己実現」をするというのが止揚として描かれています。

リトは孤独な環境を出て褒められることを知り、好きなものを書くということを知るのです。

 

③薬物とアート

個人的には、このアニメを見ていて勝手に勘ぐって一番感心してしまったのが、「スクーパーズを倒したときに出るスイーツ」です。

このスイーツ、実は少女たちをスクーパーズ化するもので、このスイーツのおかげで少女たちは具現化のパワーを得ることができていたのです。

・・・ん?

スクーパーズという創造性のないもの」を倒すと「創造性の力得ることができる、これは納得できます。

しかし、それによって徐々にスクーパーズ化する=長期的には創造性がなくなるのです。

つまり一瞬だけ力を得る系のクスリな訳です・・・

 

そして、このスイーツを食べ続けた主人公たちは、錯乱していきます。

気持ちのいい言葉しか聞こえなくなり、幻覚や幻聴が現れ、暴走し、体は醜くなっていくのです。

 

もうこの時点で、薬物のメタファーであることは明らかです。

 

街自体が妄想であったことにも気づきませんでしたし、スイーツを多量に摂取したシーンでさゆみんが巨大化して見える様子は、モロ薬物描写です。

 

クリエイター、とくにアーティストと薬物の関係は切っても切れません。

実際の数多くの名作品が、薬物によって生み出されたといえます。

薬物常人にはできない発想を可能にするのは否めません。このアニメでも実際に力を得ていました。

しかし、アーティストの薬物疑惑が発覚したかのごとく、突然視聴者は彼女たちのスイーツの事実を知らされ、地獄に突き落とされます

この描写の仕方は感心しました。

 

④仮想と現実

物語で描かれてきた原宿すべて妄想でした。

主人公たちは憤慨し、創作は現実世界に存在し、リアルに接続しなければならないといいます。

ここには2つの意味があるように思えました。

 

1つは、創作はカタチにしなければならないということ。

頭の中にあるだけではダメなんだという主張です。

創作を発想表現という過程に分けたとき、表現が大事だという考え方ですが

、これは現代の大量消費社会における、記号的なコンテンツに対する警鐘のようにも思えます。

~要素(発想)」ばかり注目して詰め込んで、肝心の描写(表現)が薄い作品に対して、描写にもっと力をいれろというメッセージだと思います。

 

もう一つは、「リアル=日常に、意思とは別に独立して、無為自然作品が存在するべき」という主張です。

つまり、創作物は作り手の手を離れて公然と受け取られるべきということです。

作品は作品単体として、どんな批判も受け入れるべきだというメッセージを感じます

作品を妄想してもいいが、見る人、見られる環境、評価までも妄想してはいけないということです。

 

 

いかがでしたでしょうか。

アニメ自体の評価は、やや後半の構成が余ったことや作画など総合的にみてそんなに高くはないですが、描いた世界観は良かったと思います。

脚本がもう少し良かったらなあと少し残念です。

個人的には海外の方にどう見られたのかが気になりますね・・・