けものフレンズ考察 たつき監督のとった手法
第1話放送時からあった「このアニメは何かおかしい。」というオーラ
世間を騒がせ、けものフレンズ考察なるものが各所で行われている「けものフレンズ」だが、
未だにその魅力がはっきりと指摘されていない。
このアニメにはアンチが少ないが、これはそのことが原因だといえる。
魅力が説明できないから、それを否定することもできない。
けものフレンズがなぜヒットしたのかを具体的に考えなければ、当たる作品は作れないし、不明のままではコンテンツクリエイターを勘違いさせ混乱をきたす。
だからけものフレンズの魅力を考えるのだ!
まず一話を見てみよう。
いまさら言うのもアレだが、この一話の段階ですでにほかのアニメとは違う「何か」が感じとれた。
けものフレンズファーストカット。サバンナのような景色が映る。導入の基本だ。
続いて寝ているサーバルのショット。
この時点で、コスプレをした人間=萌えアニメという先入観が入る。
そのため一気に視聴者の緊張が解けてしまう。
だが、ここからいきなりナレーションもなくサーバルの「狩りごっこ」が始まり、気を抜いた視聴者を「?」にする。
そしてかばんの「どこ?ここ?なんで?」というアニメ最初のセリフ。
すでに観客と主人公を同じ状況に落とし込んでいる。
サーバルはこれが「狩りごっこ」だと説明するがその次のカットがこれだ
実際に見ればわかるが、このカットの動きは明らかにおかしい。草むらを走っているのにツルツル滑るような不自然さがある。
放送時にこのシーンを見た瞬間、「このアニメはやばい」と感じた人は私だけではないはずだ。
放送開始3分もたたずに作画崩壊的なこと(3Dだから厳密には違うけど)が起きている…コンスコン少将も驚くだろう。
アニメーション制作には作画コストというものがある。当然こういう動きは作る前に表現するのが難しいと分かるはずだ。
もちろん、こんな崩壊しかけてしまうようなカットを取り入れたのには理由があった。
それはいうまでものなく「サーバル」と「かばん」の「身体性」と「性質(性格)」の対比のためである。このアニメの重要な要素だ。それを描くために見た目より中身をとったのだ。
しかし当初そんなことは考える間もなく、サーバルの「あははははふふふふふ」というなんともいえない声優の演技を聞くのである。途中でチャンネルを変えた人がいたとすればそれはここだろうw
これはとても演劇的な演技に感じとれる。棒ではないが明らかに演じている、素人か子供の演劇といった感じだ。
そして「たべないでください!」「たべないよー!」というお約束になるシーン。その後一度CMで区切られる。ここまで何の説明も、ろくな会話もない、珍しい始まり方だ。
こういうつかみどころのない展開の映像に対して、視聴者はストレスを覚えがちである。
映像という情報量の充分なメディアにおいてよく分からん!というのはつまり、つまらないということだ。
しかしこのアニメの場合、すぐによく分からんとはならない。とてもシンプルな画面、狩りごっこなど平たいフレーズしか出てきていないからだ。
ストレスは感じさせないよう出来ている。何もつかめないが見ていられる。名オープニングだ。
二人の視点の構図。やがて会話が始まる。ここで一番最初に語られるのが、「かばんが何のフレンズか」である。このアニメ第一の命題を何より先に提示する。
その後、サーバルによる「ガイド」が始まる。これも重要なキーワードになる。
途中サーバルは不思議な動きをしているのだが、この動きに特に意味はない。
アニメでは珍しいが、実際の人間=ドラマや演劇では多々あるものだ。性格を表すためにそれを取り入れている。
その後二人は一緒に行動していくが、ここで描かれるのは「二人の性質と対比」、「かばんに対するパークの説明」、「セルリアン」などである。
そのすべてが謎に満ちていて、情報が不完全な状態で視聴者に渡される。
「もっとパークの説明をしてよ!」と視聴者は思うが、かばんはそんなもの求めていないのである。あくまで二人の自然な会話の流れでしか情報が出てこない。
よって詳しく知るには続きを見るしかない。続きを見たいと思わせられるのである。
この辺で勘のいい視聴者は気づく。「このアニメ、回想や独白、ナレーションを使っていない」と。
さきほどまで低予算の低品質アニメだと思っていたとしても、考えが変わったはずだ。声優の演技も相まって、まるで演劇を見ているような錯覚が起きる。
そしてもう一つ重要なことを知る。
この動物紹介の映像は、このアニメの1つのテーマを明確に視聴者に伝えてくれる。実際の動物の紹介をすることで、
けものフレンズは現実世界と繋がっているということをあらわすのだ。
フィクションであっても、この世界は現実世界が元にあるということだ。
その後、唐突に人工物の痕跡が現れる。それを知らないサーバル。急にアニメが不気味さを醸し出してくる。
そしてまさかのアクションシーンに突入する。ほのぼのと見ていた視聴者に緊張感を与える展開。こいつら戦うのかよ!と驚く。
BGMも攻撃的なEDMになる。起承転結の転が明確だ。
さて、
さきに、視聴者側は情報が不完全で、サーバルが知ってることを知りえないと述べたが、ひとつそれと正反対のことがある。
第一の命題、かばんの正体についてだ。
実は「かばんが何のフレンズか」という問いを立てた時点で、
多くの視聴者はすでに確信的な答えを持っているのである。
「かばんは人間だ」と。
だがしかし、けものフレンズの世界のキャラクターは、誰一人それを知り得ない。
ここに存在する観客と登場人物の知識の食い違い、それが大衆劇において非常に重要な要素である。
例えば、恋愛ドラマにおいて、互いに思い合ってるのに結ばれない二人を見て観客は涙する。
描かれる二人の思いは、ある意味で神の立場である視聴者にとっては明白な事実でも、作品の世界の人物は知る由もないことだ。
こういった食い違いに介入できない無力さがペーソス、哀愁を生み出し、感情を動かされる。
けものフレンズではこの食い違いによる哀愁が、人工物の痕跡やフレンズの不気味さ、現実への意識と相まって
日本人の心にある「あはれ」「侘び寂び」といった感性を刺激し視聴者を魅了しだすのだ。
けものフレンズの演劇的魅力とは
ここまで一話を詳しく見てきたが、ここまで書いた内容は作品全体に通して言えることだと思う。
とめると
- 作画の綺麗さよりも演出重視である
- 演劇的な演技、演出である
- 実写で現実世界を想起させる
- 起承転結が明確である
- BGMや環境音の効果が明確である
- 登場人物と視聴者の知識に食い違いがある
ということである。
これらのことから、けものフレンズの魅力を考えよう。
まず、このアニメの魅力は「演劇の手法」を取り入れたことにある。
「すごーい!」「なにこれーなにこれー!」「たーのしー!」
といったバズワードたち。特別画期的なセリフでも言葉でもないのに、これらのワードがヒットした理由は、声優の演技にある。
このアニメに登場するフレンズは、人間化した動物だ。
つまり、フレンズの行動は「人間による動物の演技」であり、「動物による人間の演技」である。
言い換えれば、じゃぱりぱーくでのフレンズたちは「演劇」をしていたのだといえる。そのため声優たちはその「演技」を演じたということなのだ。「演劇をしているのような演技」をしたというわけだ。
演劇的なセリフを意識すれば、おのずとセリフひとつの長さが決まってくる。長ったらしい説明のセリフなどあるはずもないのだ。演劇にそんなものがあったら、たちまち世界観が崩れていくだろう。脚本の時点で演劇志向なのだ。
このアニメが演劇的だという根拠は他にもある。
これだけ謎が多くキャラが多い作品だと、それぞれの思考を表現するために独白(心の声)や天の声・ナレーションを使用するのが一般的だ。
しかしこの作品にはほとんどそういった手法が用いられていない。心の声のようなものであっても、それは独り言のように声に出している。
演劇においても、人物のやり取りで物語を語っていかなければならない。回想はシナリオを作るうえで非常に便利なため多用されがちだが、このアニメは演出として意識的にそれを使わなかった。
「回想やナレーションを使わない、セリフは短くまとめる」
潜在的に視聴者が求めていた事。こういった演劇的手法がアニメでもとても有効であったのだ。
また、それらの演劇的要素に加え、アニメ的な手法である記号化=キャラ設定が抜群だったといえる。
「~が得意なフレンズ」と「既知の動物種」を組み合わせることで、登場した瞬間に印象が刻まれる=理解ができる。
余計な説明はせずともセリフと行動だけで性格を物語ることで説得力が他作品とはダンチガイだった。
かばんちゃんひとつ例にとっても、
「たべないでください」
「たべるならぼくを」
というこの二つのセリフだけで「自信がなくて臆病だけど優しくていざというとき勇気を出せる」という、本編のキーとなる性格を描き切っている。
ほんとうにどのキャラも愛されるようなキャラ=行動=セリフ=説得力が与えられている。
キャラだけではなく、各種伏線にもそういった演出力を感じた。
たつき監督の腕前は素晴らしいとおもう。
私の考察した「けものフレンズ」のテーマ
もう一つの魅力は世界観であろう。
アニメが完結した今も謎は多い。その裏設定的なものを考えたくなる人も多いのだ。
けものフレンズを見て、私はこう考えた。
不寛容や差別が蔓延しているこのご時世、それらに対して「個性」と「孤独」という切り口を見せたのではないか。
フレンズたちは自分の個性を大事にするし、それと同じくらい他人の個性も尊重する。自分と違うからって嫌悪しない。
だが基本一人行動だ。
「仲良しグループ」とかはあまり無く、一部を除いて個々同士の関係はかなりドライだったりする。全員がお互いを「孤独に」認め合ってる。
ジャパリパークは不寛容や差別がなく楽しそうに見える世界だ、だが実はそういう世界がディストピアだったりする。
つまり、カワウソちゃんはひたすら「一人」で滑り台を滑るわけだ。それしか楽しみを知らない。
私たちはそれで我慢できるだろうか。
他を認めることは他を理解することではない。すべてを認めるということは他者の理解を放棄したようなものだ。他を理解しない限り新しい知=楽しみの発見はない。
競争がない中で孤独に個性を磨いても人は飽きるだろう(フレンズは別としてw)
そこにかばんちゃんが持ち込んだのが協力=他の理解を要する合理性論理性の「文明」だった。
ただただ「かばんちゃんはすごいんだよ」というサーバルちゃんは、そういったものによる「知の発見」取り憑かれてしまったように見える。
そういう素質は元々あったかもしれないが、
もう自分のなわばりで好きなことだけをしている「孤独」には耐えられないだろう。
結果かばんちゃんに付いていくわけだから。
差別のない社会には孤独とか無知が存在する現実
個性を認めることと理解することの違い
みたいなことをテーマとしてみたら、けものフレンズは理想郷とディストピアを重ねて見せた皮肉な作品といえる。
このように多くの考察ができるアニメだ。
この世界観を作り出した吉崎観音。けものフレンズのヒットは、その才能によって作り出されたといえる。
また、たつき監督は自主製作アニメを多く公開している。それらを見ると、どのようにけものフレンズを作ったノウハウが培われたかわかる。
たつき監督は本当に作品作りが好きなフレンズなのだ。
作品作りへの一途な思いがもっとアニメ業界、映像業界にあふれるきっかけに、このアニメがなると期待して止まない。
2017/4/28 追記
最後まで読んでいただきありがとうございます。
恣意性と偏見による少し暴力的な記事になってしまったので、あくまで作品に対する一つの切り口程度に捉えてください。
いただいたコメントへのリアクションコーナー
>>「監督にばかり注目集まってるけど、脚本の田辺さんが演劇の人だから、演劇的なのはその影響の可能性が高そう/
知の発見云々は人間中心で見てる傲りじゃない?コツメカワウソちゃんは独力で滑り台を発見したと思うけど」
「脚本の書き方が演劇的」と書いたように、そのとおりだと思います。脚本を書いたのは田辺さんですので、彼の影響が大きいと思います。
この記事は全ての演出者をたつき監督としていますが、それはこの作品が少人数による制作だったこと、たつき監督によるデレクションの仕方が極めて作品に影響力を持っていたと考えているからです。ある記事で、たつき監督はアニメ制作のすべての過程で関わっているということが紹介されていました。
これらの点で、この作品の演出を決める決定権を持ったたつき監督の功績を作家主義の観点で評価しましたが、当然その監督の意図を作品に昇華させたのは制作スタッフ陣全員です。ポピュリズム的な流れでたつき監督ばかりに注目が集まっていることは否定できないとは思います。
知の発見について
記事で述べたように、フレンズたちは人間化されていると考えています。そのため人間的な「知」「遊び」を受け入れるだけのキャパシティが元々あり、人間的に捉えられるという前提があります。
コツメカワウソちゃんは当然独力で「滑る」という「楽しさ」を見つけたとは思います。滑り台という遊びは人間的です。これはサーバルちゃんも同じです。「かりごっこ」は「ごっこ」というようにとても人間的な遊びです。また彼女たちは温泉やゲームマシンでも遊んでおり、人間の遊びを受容できるといえます。しかし、それらは人間化されたことによる影響であって、あくまで人間の遊びを動物的に楽しんでいます。
そのため、かりごっこをするサーバルちゃんは一部のフレンズからよく思われていません。トラブルメーカーという扱いです。なぜなら、サーバルちゃんは自身の見つけた楽しさを「知」と捉えていないために、相手に遊び方・ルールを説明するわけでもなく、本能的な動きの楽しさ・快感への欲求のもとで行動してしまうからです。カワウソちゃんも、滑ることの楽しさを見つけたものの、それを誰かに教えたり、よりおもしろくするような工夫はしません。人の遊びにまで昇華していない。人の遊びとは異なるのです(乳幼児の遊びには似てるかもしれません)。
人は遊び方を工夫します。遊びの本質を理解しているからです。なぜ楽しいのかを考え、それに沿ってルールを決めます。かばんちゃんは6話で危ない合戦をするフレンズたちに「風船を潰すゲーム」を提案しました。これは旧来のフレンズたちがルールを作り出せない=遊びを成立させられないことの象徴的な出来事です。
楽しさを見つけるのは動物でもできます。カワウソちゃんもできました。楽しさは身体と結びついているからです。しかし身体と結びついた本能的な楽しさを、頭で考えて論理に結びつけるのが遊びあり、知であると思います。この点でカワウソちゃんたちフレンズは、遊び=知を見つけられていないと思います。
>>「>途中サーバルは不思議な動きをしているのだが、この動きに特に意味はない。
サーバルメトロノームなる呼称がつけられてまして実際の動作として意味はあるようですよ。」
なるほど。サーバルメトロノームの意味は知らなかったので調べてみました。
ちなみにこの謎ダンスについては「崖を降りる前の準備運動」や「テンション上がってる表現」という説のほか、「左右に動くことで視差によって距離を測っているのでは」という説を唱えるけものフレンズ考察班も居り、だとすればここでは崖の下までの距離を測っていることになる。
準備運動というのはおもしろいですね、確かにそのような動きにも見えます。運動が得意なサーバルちゃんを描きつつ、準備運動という人間的行動をするという伏線のシーンだったのかもしれません。視差説はどうなんでしょうw 詳しくないですが両眼視差の原理であれば、単眼の種でないと成立しないのではないでしょうか。実際のサーバルキャット種が行う行動ならありえますが。テンションが上がってる表現というのはそのとおりだと思います。セリフや声色ではなくこういった不思議な動きで表現するのはおもしろいですよね。